夏 浸 のイフクベ。

吹き抜けから吹く風の優しさに洗われるような思いだ。素晴らしい映画を見終わったというのにまだ日が暮れていない。こんなに素晴らしい事が、他にあるのでしょうか。

 

イフクベタカシが思うに、この鬱陶しい夏の良いところは、「・昼の尺・夕の限りない紫紅色・女の汗」。多く見積ってもこの3つのみかな。

昼の尺は長けりゃ長いほどええ。

汗を流すまでもなく我らの青春は目の前の液晶の中にうつされり。『クラウドアトラス』、『人生はビギナーズ(マイク・ミルズ監督)』、『暁に祈れ』、そして新入りの『グリーンブック』君。その時点でPM6:00。いや、まだ日が暮れてないなんてな。これは誤算であり賛辞である。(もっとも、こと気温という観点において、夏野郎はこの時間帯にこそ鬱陶しさの限りを尽くす訳だが…😢)

紅潮した3歳ガキのほっぺたが如く全力の紫紅を見せた夕が過ぎ、短い夜を使い果たすべくの映像こじきはもっぱらのNetflix浸りにしけこむ。

芸術の不摂生、加速。

最近のフル休日は映画しか見てねぇみてぇだ。俺の癒しあやしは映画 映画 映画。いや、そういう訳でもないけど、今年の夏は映画と共にあり。

映画が好きなんだなと最近気づいた。それも恋と近え。なんとも気色の悪い話だ。

映画も俺のことが好きだといいな。

いい作品よ、迎えに来てくれ!

 

『このサイテーな世界の終わり』無事完走後なぜか、じき夏が終わるな〜と、そう感じた。

このドラマは、『映画もいいけど音楽も好きだ!!』を思い出させてくれるからいいなぁ。

今年の夏の終わりには誰の歌を添えようか。

 

 

とりま、かき氷でも食うか!

冬について

真っ直ぐに投げたはずの言葉がことごとく白く濁ってしまうのだ。

それはこの季節のせいです。

そう結論をつけます。

 

 

 

 

最近は水っぱなが収まらす、指の悴みがぬくまらない。それらを堪えながら、蒸発するように寒空にのぼってゆくオーブを追いかけている。

そんな最中、またこ恥ずかしい文章を書くに至ります。

いかに良い夜を過ごし、良い酒を飲み、良い仲間とパッションを分かち、そのヴァイヴスを掲ごうとも、1人でつく帰路を襲う朝方の氷点下を溶かすことは出来ない。

1人ってやっぱ嫌だなぁ、とかさぁ。

個人的に冬という季節の表題色は白だと思っているのだけど、三重県の冬に白はあまり見られず、夜の街は夏や秋と同じ色で光る。

残業の灯りや、男女の交わりの灯りや、家族の温もりの灯りが、喧騒と共に街の装飾を果たすべくの様。

「ありがとう。」と言えない。

「嫌い。」と言えない。

「ごめんなさい。」と言えない。

全てが白く濁るよう。自分が嫌で、いっその事投げ出しては腐ってしまいたくもなる。たまには。

それも、朝を迎えたら全て無くなる。

嬉しいのか悲しいのかも分からん。

でも心地が良くて。寒くて、とてつもなく寒くて、けど、ここに居たいと思ってしまった。

てか暑いより全然いいや、汗をかくのが嫌いだ。

街灯が照らしていない場所から鮮明に見える寒空はまるで宇宙で、それは冬の悪くない点のひとつと言える。

台風

それはそれは目まぐるしい速度さ。

今夜くらいアパートの外壁を打ち付ける痛々しい風の音に隠れ、鼻歌の一つや二つ許してくれよ。今夜くらいあの安如泰山なコンクリートの街をハロウィンのクラブみたいに揺らしてくれよ。今夜くらい肘つっぱりっぱなしのあいつらの力みをとっぱらってやってくれよ。

着飾りなんてするだけ虚しいと教えてくれ。

真正面から吹き荒らして俺らの正装なんて片っ端から意味ないと否定してくれ。

つまるところ、今夜に限らず、誰かがつまらないと感じるそこに、君はいてくれ。

五十鈴川でカッケー濁流をみせてくれよ。

河川敷、浸水しちゃうくらいのさ。

俺に可笑しいものを見せてちょうだい。

けど、くじけそうな人には優しくしてね。弱々しい人には、その背中に吹いてあげてほしい。励ますの得意そうだよ、君は。

そしたらさ、

たぶん俺ら、いい友達になれると思うんだ。

なげえけど、できたらぜんぶよんで

無数に近い文字の海を潜りながら、そこから一際暖かいものだけを手繰り寄せて持ち帰る。その行程は割と俺を満たしてくれるし、インプットした文学的趣向は、恥ずかしながらリリックに顕著に現れる。きっと俺は、好きなものから直で影響を受けるタイプです。

じいちゃんの書籍にほったらかしにされてあった新装版水滸伝全集は、己が骨董品という自覚がまるでなく、新品同様の面構えであったことから、案外悠悠閑閑なペースで構ってもらえてはいたのかな、などと物思いにふけってみる。

そういうノスタルジックに浸っている間に春は秋になって、父は再婚をして、じいちゃんの書籍はなくなってる。俺は成人してた。

木偶の坊極まりない俺を23の歳まで育んでくれた父を悪者にしたい訳がないし、時の流れを責めたい訳でもない。ただ、際限なくやってくるノスタルジックは、〝今〟に居たい俺を置き去りにする。気づけば日は暮れて、気づけば目の前に明日がある。俺は今日に居たいのに。

美味しいご飯食べ終わりたくないし、好きな歌には終わって欲しくないし、美しい映画をずっと観ているにはどうすればいい。

 

とりあえずたらふくご飯を食べたらお腹はいっぱいになる!みたいな無理やりな結論はつけたくないので、一生満たされない胃袋と、一生食い終わらないビフテキを俺にください。

 

強いての話ならば、文学や音楽は終わらない。

今も世界中で増えてるそれらは、何億光年かけて地球に辿り着く何処かの銀河で燃えてる星の生気のように、時間をかけて、次々と生まれては俺らの目や耳に届こうとしてる。俺や君は、そこから一際暖かいものだけを手繰り寄せてるんだ。

多分俺ら人間は既に数百年前から、常にそういう事をしてる。

なんか伝えたい側と、なんか伝わってる側の相対性である。重要なのは、両サイドとも耳も口もある事。俺は人生をかけて、その両方がひとつについてる根拠を定義したい。

きっと文字も言葉も音もある意味ツールで、そこに宿るメッセージが主役だとしたら、

手に持ってるのがマイクでもペンでも、

ナイフでもマシンガンでも代わりはなく、

きっと暴力だって宗教だって音楽になるんだ。

俺はそういう歌を歌いたい。

まとまんねー。

 

 

ハレルヤ

 

 

水垢浮かぶ鏡があからさまに〝寝起き〟といったようなふてっこい表情とそのド真ん中に座る潰れっ鼻を映し、「これは俺だ」と確認する。朝が来たってまぶたの裏は居心地が良くて、その余白を埋める作業を永遠に続行していたい。
夢の中での俺はアルビノの子鹿で、翠色の湖の畔に住んでいて、概ねマーゴット・ロビーといったような乙女に飼われており、たらふく贅沢三昧である。

けども日がのぼる途端にうつつはやってきて、俺のケツを叩いたり、俺の頬を抓ったり、時たまインターホンを押してきやがる。

起きなきゃ!

五月せえし、痛えし、うぜえのに、俺が住むのはここだ。紛れもなく俺が踏んでいる地面はここにある。起きねば!

そして起きたら、お国には金を払わなきゃならんし、不在着信には折り返さねばならんし、息は吸って吐かねばならんし、バイトには行かねばならん。

 

俺は、俺であることを忘れんために風呂ではかなり大声で歌を歌うし、真夜中の商店街では夢遊病ばりの闊歩をみせるし、イヤホンを耳にさしたらオリジナルのステップだって披露しちゃう。

そして活字というのは、俺の生活にさほど寄り添っているというわけでも無く、けども、俺の奥の1番大切にしている部分を守ってくれているような気がする。支離滅裂でごめん。

ウオーこんなもん、文学でもなんでもない。

隣で、起きざまの君の温もりを忘れたら終わりだ。

俺は俺で居なくちゃ。

君も君で居てな。

ハレルヤ!