なげえけど、できたらぜんぶよんで

無数に近い文字の海を潜りながら、そこから一際暖かいものだけを手繰り寄せて持ち帰る。その行程は割と俺を満たしてくれるし、インプットした文学的趣向は、恥ずかしながらリリックに顕著に現れる。きっと俺は、好きなものから直で影響を受けるタイプです。

じいちゃんの書籍にほったらかしにされてあった新装版水滸伝全集は、己が骨董品という自覚がまるでなく、新品同様の面構えであったことから、案外悠悠閑閑なペースで構ってもらえてはいたのかな、などと物思いにふけってみる。

そういうノスタルジックに浸っている間に春は秋になって、父は再婚をして、じいちゃんの書籍はなくなってる。俺は成人してた。

木偶の坊極まりない俺を23の歳まで育んでくれた父を悪者にしたい訳がないし、時の流れを責めたい訳でもない。ただ、際限なくやってくるノスタルジックは、〝今〟に居たい俺を置き去りにする。気づけば日は暮れて、気づけば目の前に明日がある。俺は今日に居たいのに。

美味しいご飯食べ終わりたくないし、好きな歌には終わって欲しくないし、美しい映画をずっと観ているにはどうすればいい。

 

とりあえずたらふくご飯を食べたらお腹はいっぱいになる!みたいな無理やりな結論はつけたくないので、一生満たされない胃袋と、一生食い終わらないビフテキを俺にください。

 

強いての話ならば、文学や音楽は終わらない。

今も世界中で増えてるそれらは、何億光年かけて地球に辿り着く何処かの銀河で燃えてる星の生気のように、時間をかけて、次々と生まれては俺らの目や耳に届こうとしてる。俺や君は、そこから一際暖かいものだけを手繰り寄せてるんだ。

多分俺ら人間は既に数百年前から、常にそういう事をしてる。

なんか伝えたい側と、なんか伝わってる側の相対性である。重要なのは、両サイドとも耳も口もある事。俺は人生をかけて、その両方がひとつについてる根拠を定義したい。

きっと文字も言葉も音もある意味ツールで、そこに宿るメッセージが主役だとしたら、

手に持ってるのがマイクでもペンでも、

ナイフでもマシンガンでも代わりはなく、

きっと暴力だって宗教だって音楽になるんだ。

俺はそういう歌を歌いたい。

まとまんねー。